2016年1月8日金曜日

数値で測ることの恐怖

あけましておめでとうございます。
年始早々に暗くてすいませんが(年末に書いたんです)
データドリブンな世界における注意に続きがあるんです。続きというのは後からでてくるものですが、後ろにあるわけではなくて前にありました。なんだかもう、過去のゲームをもう一回やっているんじゃないかという気分になってきました。

Alexis C. Madrigalが、データドリブンな世界に潜む欺瞞を語るときに、自分の健康を計るうえで向き合う―がそれはうそっぱちであるもの―体重計について触れていましたが、最近手にした原克の著書「身体補完計画 すべてはサイボーグになる」はその源流となるところを紐解いているように感じます。

振り返ってみるとこの『計る』という行為の裏側には、アメリカ建国から自らの国力を高めるためという目的があった。クリーンで健康なアメリカ国民というのを広めるうえで、優性な血統が汚されることなきよう最新の科学を応用して測定する。そこに標準体型が数値として表され、見本となるような像(ノームとノーマ)まで作られていった。

ところで計るという行為と優性思想を考えたときに、私が思い出すのはベルギーの植民地であったルワンダで起きたジェノサイドである。学生のころ文化人類学の権威(と同じ苗字!)の講義を受けられる!とわくわくして聞きにいくと、ツチ族とフツ族の対立について少数派と多数派の文脈で語られるのみであったが、そののちにルワンダ虐殺についての映画作品「Sometimes in April」を見て、その背景のおぞましさを改めて思い知らされた。入植者が、鼻の高さで現地の人々をツチ族とフツ族に種別分けしたのだった。そして携帯を義務付けられている身分証に計測に基づき、いずれに属すか記されている。それがどちらかであるか、というもののみが登場人物たちの生死を分かつことになる。

身体の特定の部位を優性思想のもとに測定しソートする行為。もっと言うと、ツチかフツか明記した身分証を必携させており、識別子となって身分証に書かれていることが生死を分ける。ジグムント・バウマンのリキッドサベーランスとともに、これからのデータドリブンな社会が何を描いていくか、過去は十分に語っているような気がしてならない。最新の科学の力で数値化し、ソートするその行く末は「適合者」のみをあぶりだす行為だ。そしてその計測・解釈がすべて正しいという前提でのみ適合、不適合の二元性から、私たちは逃げることができない。

インターネットは歪んだ現実のみを流布する。それは「テクノロジー」と「健康」に偏っている。そして我々は哀れにも金を払ってフィットネスに通わなければならない。そしてフィットすべき標準のスコープとサンプルは、もっとずっと偏っている。

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